2011年9月25日日曜日

人工衛星落下からみる世界の規範

せっかくブログを始めたのに全く更新していませんでした。

今後は"今"感じていることをマイペースに綴っていきたいと思います。

今回は、ある事象についてTwitterに投稿した文章をブログ用にまとめてみました。


ブログ用に書いた記事ではないので読み辛いかも知れません。


「人工衛星落下からみる世界の規範」

最近、活動期間を終え制御不能になった大気観測衛星が地球上に落下するとメディア等で話題になっていたが、本日のNASAの公式発表によると人工衛星は大気圏を通過し、太平洋上に落下したことが確認されたそうだ。

今回落下した大気観測衛星「UARS」

正確な状況はまだ明らかになっていないが、幸いにも落下物による被害報告はなされていないようである。
これにより、人工衛星落下によって起こり得る最悪の事態は避けられたと言ってもよい。

しかし、被害者が出なかったことに安堵すると同時に、この件についていくつかの想いが込み上げてきた。
そこで、自らが感じたことを以下にまとめていきたい。

まず、全く科学的知識の欠片もない主観的意見だが、活動停止した人工衛星が地球上に落下することが明確になった時点で関係機関は何らかの安全保障上の対策を講じるべきであった。

今回の衛星は民間機関によって打ち上げられたものではない。
アメリカのNASAという公式機関によって宇宙空間に打ち上げられたものなのだ。

つまり、国家は自らの責任で宇宙空間に打ち上げた人工衛星について、その残骸が燃え尽き最後の塵になるまで責任を持つことが当然の責務であり、国民を落下衛星の脅威に晒すなどという状況は本来あってはならないのである。

しかし、落下衛星のリスクに関するNASAが行った発表は自身の知る限り「衛星の破片が人に当たって負傷する確立は3200分の1」というものに限られており、安全保障における対策は実行されていないようだ。
また、日本政府の対応としても外出を控える程度の呼びかけがなされたのみである。
(他にも発表はあったと思われるが、一般人が得る情報はこの程度であろう)

つまり、NASAをはじめとする諸機関や国家は、どの国民にかかわらず「人間」が衛星の落下によって負傷する可能性が少しでも存在していることを明確に理解していながらも、その脅威を排除しようとせず、ただ傍観者として立ちすくむ他なかったのである。

この無責任な対応は、責務に対する怠慢であり言語道断ではないだろうか。

衛星が地球上のいかなる所にも落下する可能性があり、かつ人間に当たる可能性が3000分の1も試算されているにもかかわらず、相当の注意を促すという程度の対応しか行えない国家は、はたして本気で国民を守る意図があるのだろうかと疑わざるを得ない。

今回のような事態に備え、NASAを管轄するアメリカ政府内においてシェルターを建造するなどという具体的な議論はこれまでになされたのことがあるのか。
なされているのであれば、実際にシェルターなどの避難施設は存在しているのか。

答えは限りなく否だろう。

私は宇宙や衛星について何の知識も持たない一般人なのであくまで想像の範囲になるが、仮に避難施設等が存在するのであれば、有事の混乱を避けるためにも国民にその存在をあらかじめ知らせておくなどの措置は取るのではないだろうか。
(シェルターの存在を前提とするならば、衛星落下のリスクが限りなく低かったためにその存在を意図的に公表しなかったのか、より危険な事態に備えて秘密にしている可能性も考えられる)

また別の手段として、落下する衛星が大気圏に突入する前に宇宙空間で爆発させることにより、リスクを消滅させるなどという対応はできなかったのか。

答えは分からない。

しかし、もし宇宙空間で衛星を破壊することができないのであれば、それはなぜか。
技術的な問題なのか、コストの問題なのか。

3000分の1という数字は宇宙事業に携わる者にとって安全を信頼できる数字だったのか。

多少の犠牲に莫大なコストは払えないのか。

それとも、民間人の命は取るに足らないとでも言うのであろうか。

もし、技術的な問題であるとすれば、冷戦期にアメリカが構想したSDI(戦略防衛構想)や現代の安全保障におけるMAD(相互確証破壊)に基づくミサイル防衛などは虚構である。

実際に国際関係で危機が生じ、それがエスカレーションして核弾頭やミサイルが使用された場合は、その使用は一発にとどまるとは限らない。

場合によっては一度引き金を引くことにより、MADによる見えない均衡が破られ最悪の事態に発展することもあるだろう。

宇宙でゆるやかに動いている(実際には何千km)衛星を破壊することすらできない技術力をもってして、現実的に戦略的なミサイル防衛などできるものかと疑わざるを得ない。

つまり、技術力が脆弱であり、それによって衛星を宇宙空間で粉々にすることが不可能なのであるとすれば、これまでの国際関係における安全保障および核戦略の議論は単なる虚構であり、机上の空論に過ぎなかったことになってしまう。

眼前で繰り広げられる現実を疑ってしまうほど、この一件に対する世界の対応には呆れ返っている。

技術力がない段階で、戦略的な安全保障などできるはずがない。

しまいには、人間が犠牲になる可能性があるにもかかわらず、イギリスのブックメーカーは落下地点を巡り賭け事をする始末である。人間のモラルにも大きな違和感を感じる。

繰り返しになるが、これまでの議論はあくまで推測であり、私自身が宇宙にかかわる知識を持ち合わせていないという前提に基づいている。
また、私が考えるほど落下衛星のリスクは低かったという可能性も十分考えられる。
そもそも私が今回の一件に関して過剰に反応しすぎただけで、実際のリスクはほどんどなかった可能性だって十二分にある。
それでも自分が疑問を抱いた事象に対して深く考察することは非常に意味のあることだ。

かつてソ連のユーリ・ガガーリンによって宇宙空間への扉が開かれた瞬間から、科学者達は人類が作り宇宙に解き放った金属の巨大な塊がいずれ地球上に降り注ぐ日が来ることなど見越していただろう。
ユーリィ・ガガーリン
人類初の宇宙飛行を行った旧ソ連のパイロット
「地球は青かった」の言葉はあまりにも有名

しかし、歴史の先人達は開発と発展という名目のもと、その事実に目をつぶり潜在的に存在し、将来的に表面化するリスクをひた隠しにしてきた。

その結果が、今回の人工衛星に対する無責任な対応として顕著に現れているのではないか。

これまでの宇宙開発は戦争の歴史でもあり、現代の宇宙技術はアメリカとソ連の二大大国のパワーバランスによる冷戦の産物であると言っても過言ではない。

冷戦期の米ソ関係を端的に表す風刺画
お互いがミサイルを抱えて牽制している
左がアメリカ大統領、ハーリー・トルーマン
右がソ連大統領、ヨシフ・スターリン

当時の時代状況を鑑みても、開発と発展が他のどの価値よりも優先されたのは疑いようのない事実であり、それによってその他の価値は犠牲にされてきた。

モラル然り、人権然り、環境然り。

これは何も冷戦期の米ソに限ったことではない。
日本も戦後の高度経済成長期は経済発展という価値を他の何よりも重視した。
現在の中国は環境という価値を踏みにじり冒涜している。

しかし、現代を生きる私たちは過去の犠牲の上に成り立つ発展によって、その恩恵を享受しているのも事実である。

このような開発と発展の代償が、現代では寄せては返す波のように止めどなく押し寄せている。

環境問題、人権問題、南北問題。
戦争孤児などもその犠牲である。

先進国の発展の肥やしとされた発展途上国。

途上国における貧困の原因は先進国にあるとする論者たちもいる。
議論の余地はあるが、コスモポリタンはその典型だ。
(コスモポリタンについてはいずれまたブロブに書きます)

各国が自国の利益のみを追求し開発を行った結果、地球は声なき悲鳴を上げている。

人類は地球の悲鳴に耳を傾けることはできないのだろうか。
はたしてモラルは向上し、道徳的な規範は浸透するのであろうか。

ここで、ある有名な理論を紹介したい。
国際関係の理論でデモクラティック・ピース論という考えである。

これは、民主主義が確立された国家同士では他の体制を採用する国家同士の場合と比較して戦争は起こりにくいとする理論であり、民主化の拡大に伴い国際関係は平和的になっていくという18世紀の思想家カントを源流とするリベラル派が唱える仮説である。

イマヌエル・カント
18世紀ドイツの哲学者
著書「永遠平和のために」の中で述べられた恒久平和の思想は後世に大きな影響を与えた

では、なぜ世界は民主的な世界へと移行していくのか。

これについてリベラル論者達は、民主主義国家が民主主義的規範を共有していれば次第にデモクラシーが世界に浸透し、その過程で戦争は制約され国際関係は平和になると考えた。

つまり、この論に立脚すれば民主的規範は信ずれば浸透するということになる。

しかし、現実では規範は信じれば広まり、そして浸透するという夢はまさに虚構である。

前述したように現実世界において、開発や発展といった価値と環境や規範などの価値がトレードオフ関係になることは難しく、実際に政策として実行される可能性は極めて低い。

環境問題へのBRICsの対応を見ればそれは明らかである。
もはや中国、インド、ロシアは途上国ではない。
しかし、これらの国々は環境よりも経済に重きを置いているのが現実である。

世界平和よりも自国の安全、環境よりも経済発展、何よりも自国の利益が重要なのだ。

これが世界を支配する真理である。

しかし、道徳的規範は浸透するという考えが戯言だと頭では理解していても、そのような世界に憧れてしまう。

その夢を見るためには、信ずることだ。

私は、どのような規範もいつかは世界に巡り広がっていくと信じたい。


今回は朽ち果てた人工衛星をスタートとして、安全保障、規範やモラルといった普段考え及ぶことのない事象について有益な思索にふけることができました。

近いうちまた更新します。次回がまったりとした内容で。